出会えたとき、産毛の生えた水のようだといつも思う。
すべすべ、が好きだ。
それはふわふわ、でもあるし、つるつる、をも内包する。
硬さと柔らかさ、冷たさと暖かさ、それらのどちら側にも属さない淡いグラデーションのなかの一粒。
わたしはその小さな粒子を見つけるたびに、そっと大切に記憶の折り目に刻んできた。
その数がたくさんと呼べるほどに増えても、それでも、感触というのは言葉にして伝えるのはひどく難しい。
石を持ち歩き始めたのは3年くらい前、思いつきで海を見に行ったある日、新潟の海岸でなんとはなしに拾ってからだ。
相変わらず水面のきらめきに気を取られながら、砂ではなく石でできた不安定な海岸を歩く。
それは、水音に耳を傾けながらわたしの訪れを待っていたのだと思う。
むき出しの足指にこつんと当たり、拾ってみればちょうどよくわたしの手にまあるくフィットする。地層のように刻まれた模様は西日を溶かしたやさしい色をたたえて、手のひらの皺にそって流れていた。
そして何よりも、その石はすべすべだった。
それからはずっとわたしのポーチの中に居場所を持ち、いつしか、いわゆる「安心毛布」みたいな存在のひとつになっている。
手のひらに収まったこの石は、憂鬱の泥濘に沈むわたしにあたたかい毛布をかけてくれたり、ときにはとことん自分勝手に落ち込むことも許してくれる。
触れていると安堵し、そのすべすべはわたしを穏やかで平和な世界へと連れていってくれる。
雫を受け止めるしなやかな青葉、
みずみずしい果実を守る表皮、
どこまでも柔らかく脆いわたしたちも、それさえあれば、それに触れられるならば、そこは「まほろば」になる。「まほろば」でなら、言葉にできない小さな粒子も、美しい光の粒になってあなたに届けることができるのだ。
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今日も暑い日だった。
強めに設定された冷房が汗を薄らげる帰り道。
斜め前に座る幼い子どもの頬がさっき買った桃みたいに内側から色づいている。
差し込んだ西日を受けて、まあるい頬をなぞる産毛がきらきらと光を纏う。
まだ熟れていない桃、待ちきれなくて手で温めてみる。
いつもは気持ち悪く揺れるだけの硬いバスの座席が、そのときわたしにとっての「まほろば」になった。
くすぐったくて愛おしい、産毛の生えた水によって。
桃はやっぱりまだ青い味がした。
わかってたけどさ。
また書きます。
明日もどうぞ健やかに。